神風は関係ない「元寇」の真実

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ただ私見としては、日本の勝因が神風ではないことは当時の現場を想像すればすぐに分かります。何より最大の疑問は「なぜ元軍は、台風が来てるのに洋上に留まってたのか」。

よくある「元寇についての誤り」は以下。
1,たまたま台風が来てくれたので、絶体絶命だった日本は偶然助かった。
2,武士が名乗りをあげて一騎打ちを仕掛けているのに、元軍は集団で襲ってきた。
3,元軍は騎馬兵で、武士は徒歩で戦った。

ブラッド・ピット主演の『トロイ』が映像的に分かりやすいのですが、洋上から襲う軍勢の目標は、まず敵を蹴散らして上陸地点に陣地を築くこと。
元朝皇帝フビライは日本攻略にあたり、揚州、湖南、泉州、広州、朝鮮半島全羅道慶尚道に造船命令を発し、江南軍10万と高麗・モンゴル連合軍35000を投入しました。

元軍が博多に姿を現すのは6月初め。そこから志賀島に上陸し、7月初めまで湾内の戦いが続きます。
そうして1ヶ月以上戦った後、元軍は船に押し込められたまま台風に遭遇。勝っているならこんなことはありえません。
またモンゴル軍というと騎馬兵のイメージがありますが、水や飼葉のことを考えると人数分の馬を海上輸送するのは不可能です。
 
次、鎌倉幕府の対応。
元軍が送り込んだ兵士の多くは、滅ぼした南宋の出身。
幕府はかつて南宋と同盟関係にあり、その亡命者や貿易商人から逐一情報を集めていました。
そのため元軍到着前には上陸地点を予想して要塞を築いており、全国から武士の集結も完了済。
 
で、博多の人口は12世紀で1万人弱、16世紀でも5万人くらい。
文永の役が1274年だから、間の2万人と見積もったとして、14万人が上陸可能な港であるわけがない。
またまた映画のたとえになりますが、トム・ハンクスの『プライベート・ライアン』みたいに、通常なら爆撃や艦砲射撃で援護しながら物資を上げていきたいところ。
しかし座礁リスクもあって小舟に分乗して来るしかありません。
すなわち兵力が分散するので、幕府側は各個撃破すれば良し。
 
次、鎌倉武士の戦い方について。
武士は「弓馬の芸」というくらいで、主な武器は騎乗しての弓矢です。
ヨーロッパのロングボウが大きいもので2mほど。
対して武士の和弓は、定寸が7尺5寸(約2.3m)。
さらに和弓は両面を削った木に、炭化させた2枚の竹を合わせて靭性を確保し、強い攻撃力を誇りました。
 
源為朝は8尺5寸、8人張り(7人で弓を曲げて1人が弦をかける)の強弓を用い、一矢で大鎧武者を3人貫通したといいます。
これは例外としても、5人張りくらいは普通に存在したようです。
で、そんな長弓を馬上であやつるには数年におよぶ訓練が必要です。
つまり大の男にそんな訓練をゆるす社会でなければなりません。
 
この頃、世界のほとんどの国は、騎兵なんて全軍の5%もいません。ほとんど歩兵。
騎兵は神速の機動力で最前線を突破する、または後方の歩兵補助に用います。
(『風の谷のナウシカ』3巻のサパタ砦突破戦を思い出してみよう)。
ヨーロッパなどは騎兵、歩兵、弓兵と専門分化するのが当たり前でした。たとえば槍兵が援護しつつ弓兵で攻撃。続いて歩兵の突撃、みたいな。
 
ところが鎌倉武士はなんでもできるオールマイティな集団です。
和弓の長距離攻撃、馬の機動力、さらに重装備の防御を兼ね備えた武士は「重装長弓騎兵」にあたりますが、太刀や槍もお手の物。
アウェイだった元軍にしてみれば、敵は地形を熟知しつつ、さらにアウトレンジで機動攻撃をしかけてくる。
やっと近接戦に持ち込んだと思ったら、白兵戦の練度も高い。
 
そんな戦力を10万人規模で動員してくる軍事国家に出会ったのは、おそらく日本が初めてだったでしょう。

つまり日本は神風で勝ったのではありません。
偶然勝ったなんてのは、当時戦った人々への冒涜。
力を結集し、勝つべくして勝った。それが元寇です。